史 跡

国指定史跡

岡山藩主池田家墓所附津田永忠墓

岡山藩主池田家墓所附津田永忠墓

津田永忠(1640~1707)は、寛永17(1640)年に岡山藩士であった津田佐源太貞永の子として生まれ、承応2(1653)年、備前岡山藩主・池田光政に児小性として出仕した。その後、側児小性などを経て光政の信任を得た永忠は、寛文5(1665)年の池田家墓所(備前市和意谷)、閑谷学問所 (現・閑谷学校)の造営などを手がけた。また、井田や社倉米の制度を開発するなど、民衆を度々襲っていた飢饉に対する事業を行い、手腕を発揮した。光政が亡くなり子の綱政が藩主となった直後は、岡山城下から閑谷に移り、閑谷学問所、学校田、社倉米などの専管になったが、後に藩政の中枢に復帰、新田の開拓を多く行った。倉田新田、幸島新田、沖新田の開拓、日本三大庭園に挙げられる後楽園の建築も、この頃永忠が携わった事業である。
 このように、岡山の基礎をつくった土木巧者・津田永忠であるが、閑谷学問所が完成するとともに隠居し、奴久谷(和気町吉田奴久谷)に別邸を建て移住した。なお、永忠は退官前に吉田付近に1500石の領地を与えられたことがわかっている。永忠は宝永4(1707)年、68才で亡くなり、別邸近くのこの地に葬られた。永忠のほか、妻、永忠の父貞永夫妻、貞永後妻、永忠の長男、長女の7人の墓がある。
(昭和30年4月1日国指定文化財)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町吉田
所有者 個人

県指定史跡

田原井堰跡附田原用水路一部

田原井堰跡附田原用水路一部

田原井堰は、津田永忠の事跡であり寛文9年(1669年)に起工し、30年かかって完成した用水施設である。幅80m、長さ550mで吉井川を斜にせきとめ、切石約6万2千個が使われた。現在のゲート式になるまでの300年にわたり下流の農業を支え続けた。
(平成5年4月23日県指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町田原上
所有者 田原用水組合

天神山城跡 附根小屋跡 岡本屋敷及び木戸館、伝浦上与次郎の墓

天神山城跡 附根小屋跡 岡本屋敷及び木戸館、伝浦上与次郎の墓

浦上宗景によって築城された連郭式山城である。享禄4(天文元/1931)年に宗景が入城して以降、数度の普請を行い完成した。城の規模約5ha、標高 338m、比高310m。吉井川が東に湾曲する辺り、田土(和気町田土)と岩戸の境にある急峻な天神山の山頂一帯に築かれていた。天正5(1577)年、浦上家の家臣であった宇喜多直家に攻められて落城し、全域炎上、廃城となる。
峰に沿って「下の段」、「西櫓台」、「三の丸(長さ26m、幅15m)」、「大手門」、「桜の馬場」、「帯曲輪」、「百貫井戸」、「長屋の段」、「二の丸 (長さ16m、幅10m)」、「空堀」、「本丸(長さ55m、最大幅17m)」、「広の段」、「天津社跡」、「飛騨の丸」、「飛騨の丸下段」、「堅堀」、「馬屋の段」、「南櫓台」、「南の段」、「堀切」の各施設が連なっていた。また、山の稜線を断ち切って設けられた「堀切」をさらに南へ進むと、「太鼓丸」と呼ばれる石垣構築の出丸が守りを固めていた。現存遺構は築城期のものと思われ、建造物は落城の際すべて焼失し礎石の一部がのこるのみであるものの、概ね良好な状態である。
南麓には武家屋敷とも呼ばれる根小屋、家臣岡本某の屋敷、木戸の遺構がある。浦上与次郎は宗景の嫡男で、宇喜多直家に石山城(岡山城の前身)へ招待され、毒殺を謀られたという。与次郎はその後天神山城へ帰るも、天正5(1577)年、29才で亡くなったとされる。
天神山城の出土品は佐伯ふる里会館(和気町岩戸/登録有形文化財)及び学び館サエスタに保存され、一部が展示公開されている。
(昭和57年4月9日県指定文化財)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町岩戸
所有者 和気町

町指定史跡

矢田部六人衆及び二十八人衆遺跡

矢田部六人衆及び二十八人衆遺跡

寛文8(1668)年、備前岡山藩主・池田光政の日蓮宗不受不施派弾圧によって処刑された僧・日閑と信者5人、及び流罪になった信者の家族28人を祀っている。
(昭和38年3月20日町指定)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町矢田部
所有者 矢田部六番七番講社

加三方磐座(いわくら)遺跡

巨岩を中心に岩が環状あるいは列状に配されており、古代の農耕祭祀に関わる遺跡と考えられている。地元では「太一墓(たいちばか)」とも呼ばれ、花見や雨乞いにも使われたという。一帯から多数の土器片、石包丁などが出土している。
(昭和51年12月17日町指定)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町加三方
所有者 加三方区

新田山古墳群

直径7~35mの円墳4基が新田山山頂に南北に点在する古墳群である。築造はいずれも5世紀頃であり、土器片、円筒埴輪片が出土している。
(昭和51年12月17日町指定)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町佐伯
所有者 佐伯区

大王山密厳寺跡

開基は鑑真と空海の弟・真雅の二つの言い伝えがある。平安時代初期に真言宗派寺院として建立され、現在は山頂近くの本堂跡などのみ現存する。本久寺(和気町佐伯/本堂県指定文化財)の前身とも言うことができ、本久寺本堂の格天井の一部は密厳寺のものと言われる。
(1)本堂跡 礎石が確認でき、本堂にのぼる約28mの石段も往時のまま現存している。
(2)鐘堂跡 本堂跡から北西150mに、8.3m×6.8mの一区画とこれにのぼる3段の石段が確認できる。
(3)経塚 本堂跡から北東150mのヒノキ林に、直径6mの円墳が確認できる。
(4)先師の墓地 本堂跡から南下方400mに、当時の僧の墓標と思われる五輪塔が10数個確認できる。
(昭和58年1月26日町指定文化財)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町米沢
所有者 個人

和気氏政庁跡

ここ田ヶ原(和気町藤野田ヶ原)の辺りは「大政(だいまん)」という地名があることや付近に点在する地名(国司免[こくしめ]、初米田など)から、大政所すなわち郡司和気氏の国衙(政庁)があったところと推測されています。この地から奈良~平安時代の土器類、瓦類が出土しており、その信憑性を高めています。
現在建っている碑は、昭和15(1940)年、岡山県内の教育関係者の寄付及び奉仕によるものである。
(昭和30年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町藤野
所有者 和気町

和気船番所跡

和気船番所跡

和気に舟番所ができたのは享保20(1735)年で、それ以前は坂根(備前市)にあったという。吉井川の度々の洪水により和気に移転されたというが、この年を正徳5(1715)年とする説もある。舟番所の築造以前から和気は港として栄えていたが、いつごろから栄え始めたのかははっきりとわかっていない。
舟番所には藩からの番所頭と手代2、3人が検番にあたっていたといい、幅約5mの石畳の舟着き場が南へ約500mのびていた。
和気の舟番所は昭和10(1935)年ごろ港として使用されなくなり、廃屋となった。現在は隣接していた和気小学校と共通の碑が建てられている。
(昭和32年1月23日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町和気
所有者 和気町

善正坊の碑

高さ171cm、幅45cmの自然石に「南無妙法蓮華経」「日泉霊」「寛永十一(1634)年七月二十二日」と刻まれている。
日蓮宗不受不施派の慶運山妙久寺の僧・日泉が、村人に脅迫されイワシを食べてしまった。禁じられる肉食を行ったことを悔いて自害しようとしていたところ、金剛川の堤防が度々決壊して村人が困っていたことを知り、自ら申し出て人柱となったという。村人はそれ以降堤防の決壊がなくなったことに感謝し、供養のために建てたのがこの碑である。「善正坊」とは日蓮宗不受不施派・法泉寺(和気町益原)にあった末寺のことであり、日泉はここで修行し善正坊日泉と名乗っていたようである。
(昭和41年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町吉田
所有者 吉田区

天皇たたら跡

中国山地から産出される砂鉄、水運、豊富な森林資源に恵まれた吉井川流域は、製鉄文化の生まれる条件を備えていたと言え、古代からたたら製鉄が盛んであった。
この遺跡は昭和32(1957)年と昭和44(1969)年に発掘調査が行われ、2基の製鉄炉が確認されている。どちらも1m程度の箱型の炉で、両側に鞴(ふいご)、後方に材料置場と作業場があり、前方は溶けた鉄が流れ出る放出口になっている。操業年代は8~9世紀と考えられる。
(昭和34年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町本字天皇
所有者 個人

峠瓦窯跡

昭和18(1943)年の、和気農協石生支所建設の際に畑地から発掘された。かわらを積み重ねて造ったと思われる窯壁が地層の断面に現れている。発掘調査は行われておらず、平安時代初期~中期の数種類の布目瓦片が出土している。
(昭和51年10月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町田原下字峠
所有者 個人

藤野寺跡

この辺りの地名は乗仙坊とか、薬師堂とかいう。出土した瓦が奈良時代のものと思われることから、和気氏の氏寺であった藤野寺域の一部と推定されている。
天保10(1839)年、万波雅俊(南峯)によって、民衆のためにつくした土豪としての和気清麻呂の業績に対する頌徳碑「美作備前国造和気清麿公之塚」が建てられている。また、この碑の前には大正4(1915)年に建てられた「和気氏経塚」の碑がある。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町藤野
所有者 実成寺

押部古墳群

押部(和気町本押部)の山すそと谷奥に点在する、円墳約20基を総称して押部古墳群という。塚山古墳群、鼓山古墳群、山根古墳群を含む。
墳丘が削平されたり、埋葬施設が破壊されたものも多いが、直径8~20mの小規模な古墳群であり、古墳時代末期の造営と考えられる。鼓山4号墳から土師器、鼓山6号墳から弥生土器、石斧が出土した。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町本
所有者 個人

掛ノ山古墳

西山川右岸の丘陵上に位置する、横穴式石室を埋葬主体にもつ小型円墳である。6世紀に造営された有力農民の墓と考えられる。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町田原下
所有者 個人

千畳田古墳群

日笠下(和気町日笠下)の山すそに位置する、直径10~18mの円墳7基である。埋葬主体が確認できるものは6基あり、すべて横穴式石室である。造営は6世紀ごろと思われる。
2、4号墳から須恵器が出土しているほか、6号墳から耳輪が出土している。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町日笠下
所有者 日笠下区

大明神古墳

金剛川が吉井川に注ぎ、西へ向かって直角に流れを変える辺りに位置する明神山尾根上にある。墳丘が大幅に削り取られて平らになっているが、前方後円墳と推定される。全長約29m、前方部幅16.5m、後円部直径約20m。昭和7(1932)年発掘調査が行われ、人物埴輪、円筒埴輪、須恵器などが出土した。人物埴輪は男性で、頭部のみ出土し、戦争に敗れたため片耳を切り落とされたものか、美豆良(みずら/古代男性の髪型)の片方の結髪が欠損したものかと意見が分かれている。古墳の造営時期は5世紀後半ごろと考えられる。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町原
所有者 原区

日室条里制遺構

奈良時代の条里とされる。条里制とは古代の土地区画制で、土地を360歩(約648m)四方の正方形に区画し、南北に一条、二条…、東西に一里、二里…と称し、"○条○里"と表した。坪の数え方は千鳥式(連続式)と平行式(どの段も同方向に並ぶ数え方)があり、正式な発掘調査が行われていない日室条里制遺構がどちらなのかは不明である。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町日室性地稲坪
所有者  

鏡の州

鏡の州

サイホン方式を用いた地下水利用の用水施設である。和意谷川が作った扇状地の先端地域である働(かせぎ/和気町吉田働)の、水田化のために計画された。
働の北西にある権現山からの地下水を、粘り気の強い赤土(鋼土)でつくった堤防で堰き止め、方向を変えさせて鏡の州に湧き出させている。
文化2(1805)年と文政10(1827)年の2回にわたって工事が行われ、完成した。鏡の州の完成により吉田は5.8haの畑を新たに水田化することができたという。江戸時代の民衆の知恵と、発想力と土木技術の高さを感じさせる。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町吉田字働
所有者 吉田区

稲坪古墳群

稲坪(和気町衣笠)の丘陵上に位置し、15号墳までが確認されている。ただし、南西斜面に直径10~15mの横穴石室をもつ古墳であったとされる1号墳はすでに消滅している。天王山古墳、天神山西麓古墳、稲坪天神山南麓古墳群を含む。
天王山古墳は独立丘陵頂上に造営された古墳で、鉄製鐙(馬具)、大刀2点、多数の須恵器が出土した。天神山西麓古墳は東西24m、南北残存長15mの、横穴式石室をもつ円墳と推定されている。
正式な発掘調査が行われていない上、出土物もないものが多いことからはっきりしたことはわからないが、6世紀前半ごろの古墳群であろうと考えられている。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町衣笠字稲坪
所有者 個人

飼葉瓦窯跡

飼葉(かいば/和気町吉田飼葉)の漆谷池の西側斜面に窯壁を露出した、2基の瓦窯跡である。この窯跡からは、藤野寺跡出土の瓦と同様の蓮華文軒丸瓦が出土しており、これは古代のものである。また、蓮華文軒丸瓦を含む多くの瓦片が出土しており、これは中世のものである。
なお、同じ吉田地内の奴久谷に、江戸時代に廃寺となった禅宗寺院・慈広寺跡があり、関連があったものと考えられている。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町吉田字飼葉
所有者 個人

丸山古墳群

丸山は石根依立神社(和気町原)の裏山で、尾根上及び山上に位置する直径9~22mの円墳群である。うち最大(直径22m)の4号墳は、帆立貝式古墳の可能性があり、南東に横穴式石室の開口部をもつ。円筒埴輪、須恵器が出土している。
そのほか2号墳の墳丘中央に碑が立ち、石室の天井石が用いられたものと思われる。
(昭和51年4月1日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町原
所有者 石根依立神社

泉野吉瓦窯跡

野吉(和気町泉野吉)の堂山東斜面の山すそに位置する、鎌倉時代後期に操業された瓦窯である。安養寺境内の西端にあたる。昭和54(1979)年に発掘調査が行われ、2基の窯跡が確認された。
万富(岡山市瀬戸町)の瓦窯では東大寺瓦が焼かれており、発掘調査前に野吉瓦窯跡でも「東」の文字が刻まれた瓦が見つかっていたため、ここも東大寺瓦を焼いていたのではないかと言われていた。しかし、実際は万富瓦窯よりも操業時期が新しく、先の「東」の刻印が入った瓦は、万富の東大寺瓦が安養寺の前身の常行堂に使用されていたものと推測されている。
野吉瓦窯は、半地下式穴窯、2基が約1mの間隔をおいて東西に並び、窯の内幅1.5m、長さ約7m、燃焼室と焼成室の間に分煙柱2本を持ち、窯の両壁は厚さ5cmの粘土で舗装される。
(昭和53年5月25日町指定文化財)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町泉
所有者 安養寺

日笠青山城跡

戦国時代末期、標高205mの頂上に築かれた山城で、天神山城主浦上宗景の家臣・日笠頼房の居城である。山頂に本丸跡と推定される約10aの平坦地があり、東下方に推定二の丸跡、北裏に井戸跡がある。尾根は天神山につながっている。
 日笠頼房は日笠荘の地侍で、浦上宗景の備前入りにともない宗景直属の家臣として勢力下に入った。青山城は天正5(1577)年の天神山城落城の前に宇喜多直家により落城したが、具体的な年月日は不明である。このとき日笠氏は数ヶ月間籠城したというが、油流し(敵方の侵攻を防ぐための堀溝で、武者落としの一種)に笹と竹を並べ、油を塗って敵が登って来られないようにしていたところ、下から火をつけられて炎上、落城したと言い伝えられる。
また、下山崎(和気町日笠下下山崎)に立つ推定樹齢約400年のムクノキには、天神山城、青山城に関わる以下の伝承がある。
 
伝承(1)
天正5(1577)年、天神山城落城のとき、天神山城の姫が落ちのびて来て、日笠下の東の山の頂上付近の洞穴に隠れた。姫はその後病にかかり、村人たちが看病するも亡くなってしまった。村人たちは姫を「山東大明神」として祀った。
 
伝承(2)
天正5(1577)年、天神山城落城のとき、天神山城の姫が落ちのびて来て、日笠下の東の山の頂上付近の洞穴に隠れた。浦上氏に代わり権力を得た宇喜多氏を恐れた村人たちは、里の川に水を飲みに下りて来た姫を鍬で討ってしまった。その後村に疫病が流行したので、村人は姫を山東大明神として祀った。
(昭和54年11月26日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町日笠下
所有者 日笠下区

和気北曽根城跡

曽根(和気町和気)の金剛川が吉井川に注ぐ付近に位置し、明石景行・宣行兄弟の居城であった。標高165mの山頂に約3haの本丸跡、南下方に約2aの二の丸跡、本丸跡西側には大手門跡、西北に搦手門跡がある。本丸・二の丸の約5m下方に外曲輪がまわり、西北突端部に北櫓台、さらに南下方30mのところには出丸となる南櫓台があった。構造としては天神山城のような連郭式ではなく、梯郭式山城であったことがしのばれる。
明石景行は天神山城主浦上宗景の家臣・明石行雄の長男で、和気、赤磐郡の地侍であった。明石氏は宇喜多氏方について浦上氏に反逆したこと、キリシタンであったことが知られる。
なお、この山はその姿形が富士山に似ていることからいつの頃からか「和気富士」と呼ばれ、親しまれている。
(昭和54年11月26日町指定史跡)

文化財・史跡概要 分類 史跡
所在地 和気町和気
所有者 和気区